2008年7月16日
  大和の国を代表する城「郡山城」を訪ねました、当日はことのほか猛暑で立っているだけで汗がにじみ出てくるほどです、炎天下にも拘らず29名の熱心な会員の参加があり、郡山駅集合後奇麗に整備された外堀緑地の涼しい公園で本日の概略をお聞きしスタートとなりました。

  

   
  写(近鉄郡山駅)(外堀緑地)(公園内説明)
飛鳥から奈良平城京に移り、平城京右京の南辺に接しています。
郡山城の東約1キロの所に羅城門跡があります、古くはこれらに関係があるのか奈良時代の井戸が発掘され、そこから富本銭が発見。また郡山は東大寺の領地で大宮人の保養所があり薬草などの栽培がされ、寺領「郡山」と呼ばれていました。
そんな歴史を頭に置きながら、中近世に於ける奈良を今に伝える史跡「郡山城」とその周辺を外堀からスタートしました、最初の立ち寄り先は
「薬園八幡神社」奈良時代に大宮人のための薬草園のあった所、本殿境内には50~70種類の薬草見本園があります。釣り燈籠も見事でした。

  

写(薬園八幡神社と2)
なにやら奇妙な建物木造3階建ての建物を見ながら、又狭い道を歩いてたどり着いた所は「大納言塚」豊臣秀吉の異父弟、大和郡山百万石の城主、大和大納言秀長の墓所。
説明者の後ろの五輪の塔、上から(空・風・火・水・地)ですよ。

  

写(大納言説明)(5輪の塔)
少し歩いた所に        

「キリシタン殉難碑」大和郡山カトリック教会がありました。豊臣秀吉以来徳川300年の長きにわたり切支丹迫害が続きました、長崎浦上から何千人の信者が流配分散されて遠い県外に追放、郡山藩も戸主10名と14家族76名預けられました。そのうち6教徒の墓があります。
明治時代まで藩主を務めた柳澤家の菩提寺。

  

 写(キリシタン)(キリシタン説明)
「永慶寺」柳澤吉保の子、吉里が郡山城主に国替えの際、甲府から移した柳澤家の菩提寺
     この寺の山門は郡山城の菊門(南門)を移築したもので、現存する唯一の郡
城の遺構です。 

  

 写(永慶寺山門)(柳澤家菩提寺)
郡山城跡に入って参りました、途中この城の城郭を見て驚きましたさすが大和三ケ国で百万石の風格。

  

   写(城郭1)(城郭2)
まずは木陰の少しでも涼しいところで昼食(弁当)です。郡山城の周辺を午前中訪ね昼食
ここで郡山歴代城主について
大和の支配をめぐって激しく戦う中、織田信長と組んだ「筒井順慶」が城主に、36歳で亡くなると後を継いだ筒井定次を伊賀上野へ国替えさせ、そのあとに入城したのが秀吉の異父弟で「豊臣秀長」でした。
1585①秀長は和泉、紀伊、大和にまたがる百万石の領主として入り城を大々的に改築する。
  ②大和一の城下町を開く「箱本」という町方自治の制度確立し、13の町を設け治安、消化、伝馬などの当番を一カ月ごとに持ちまわらせ、税は免除という特権があり賑わった。
 お城の城郭の大改築に大量の石が必要ですが、周辺の神社、仏閣から仏石・墓石その他あらゆるところから集め城郭ができています。天主台北側の野面積の石を見ますと沢山発見できます、このように石垣にされている転用石は119あるようです。

  

  

  

         写(天主台)(さかさ地蔵)(さかさ地蔵2)(礎石)(石)
1595秀長51歳で没し増田長盛が城主に  
① 外堀の建設に力を入れ周辺のため池をつないだり、秋篠川の流れを変えたりして
全長5.5キロの外堀完成させた。
大坂の陣後は長らく低迷荒廃していましたが
1724甲府から、15万石の柳澤吉里が城主となったのちは、城下町も賑わいを取り戻し、柳澤家当主は代々文治に秀で国学・漢学・俳諧・茶道・花道が栄えそれに金魚の養殖も盛んに行われた。吉里から引き継がれたが明治維新を迎えました。 

  

写(金魚マンホール)
「柳澤神社」が本丸跡にあり祭神は5代将軍綱吉の側用人柳澤吉保です。(赤穂浪士で有名?)

  

       写(柳澤神社1)(柳澤神社)
「柳澤文庫」毘沙門郭跡にあり柳澤家の史料や書物が展示されています。
大変暑さ厳しい日でしたが最後まで郡山の城下町と城跡をめぐる歴史探訪の会にご参加
ご苦労様でした。    

 

写(柳澤文庫)


        


             写(天主閣跡)

                                                                                                                (文 写真:mori)