9月度歴史探訪の会は「高野山を訪ねて」です。今回ご案内は渡邊雄史さん、天王寺発バスで行きました。バス中で高野山を訪ねるあらすじを説明していただきました。 標高1000mの高野山は816年弘法大師・空海により開かれ、真言密教の根本道場としてお開きになられた。 あと数年後には開創より1200年を迎える弘法大師のお教えが連綿と続く歴史ある山です。九度山から高野山へと一町(109m)ごとに町石が立っていて大門にいたる、今はバスで30分もあれば・・ そこから高野山の総本山金剛峯寺を経て先ず「女人堂」。その昔高野山は女性が寺境内地へ立ち入ることは禁止されていました。今は一か所しか残っていませんが高野山には七つの参詣道があり、其々に女人堂が存在していました。女人堂は金剛峯寺の外周を巡る遍路で山々の尾根を伝い弘法大師の御廟所近くまで参ったらしい。その一つの女人堂で、ここへ登る登山口を「京口」といい、京都~大阪~高野を結ぶ「高野街道」です。 女人堂 バスで再度金剛峯寺へ。豊臣秀次が自刃した寺として知られていますが、金剛峯寺を見れば高野山が解る、東西54m南北63m書院造建築「金剛峯寺」の寺号は「空海」が名付けた元来この名称は、高野山全体を指していましたが、明治以降は真言宗総本山寺院として高野山の中央に位置しています。 金剛峰寺 六時の鐘1618年福島政則公が母の菩提のため建立したもので、朝の6時から夜の10時まで2時間ごとに山内に時を報じる。 6時の鐘 蛇腹路 静かな蛇腹路を進むと「壇上伽藍大会堂」に出る。ここは空海が在世中に堂宇を営んだところで、数ある建造物の大半は江戸後期~昭和時代の再建ですが、真言密教の道場としての高野山の中核となる部分です。 その中で高野山内に現存する建物のなかで最古の堂。1198年に行勝上人が一心院谷に創建したものを移築した「不動堂」(国宝)があります。たまたま不動堂前でお経を唱えている人たちに出会い、話しかけてみますとこれから得度式に入る若き女性でした。 根本大塔と東塔 得度式に入る若き女性 「根本大堂」「御影堂」「金堂」「西塔」と各々貴重な仏像・建造物をお参りし、境内をお借りして昼食弁当をとりました。その近くに弘法大師が唐より帰朝の際、海浜より投げられた「三鈷」がこの松にかかっていたと伝えられる。この松の葉は3本に分れたものがあると聞きさがしました。・・ありました・・ 金堂 西塔 三鈷の松 昼食後うっそうとした杉の木と高野槇の静かで見事な並木の参道を通り、弘法大師の御廟のある奥の院まで。 今回は特に高野山に祀られています戦国武将をピックアップして寺院・墓等、説明解説をしていただきました。 「加賀前田家」「柴田勝家墓所」篤姫でおなじみ「薩摩島津家」「伊達正宗」「紀州徳川家」「石田三成墓所」等々「高野山に戦国武将を訪ねる」はこれから始まりました。詳しくは資料にありますので確認ください。 豊臣家の墓所 熱心に聴く 明智光秀の墓 途中に「汗かき地蔵尊?」・・2尺(60.6センチ)余りの五輪形の石に彫られた地蔵毎日巳の刻に人々の犯した罪を、慈悲により代わって受けて、汗を出しているそうです・・石の種類でしょう・・ 「姿見の井戸」空海が掘った井戸・・いろいろ説あるも、江戸時代にこの井戸のぞき見て自分の姿が水に映らなければ3年以内の命であるという説があり人気を煽った?全員必死で覗いていました・・ 汗かき地蔵 姿見の井戸 一の橋~中の橋~御廟橋をあるき奥の院に到着本日の行程を終わりしばし休憩。 弘法大師御廟 休憩所でお茶 残すはシャープ供養塔のみ シャープ供養塔 最後に全員でお参りをして第12回歴史探訪の会を無事終了しました。 (文 写真:mori) |