残暑の中にも秋の風が爽やかに感じる中、広大な平城宮の中をゆっくり歩くと前方に朱塗りの朱雀門と 復元中の大極殿を覆う大きな素屋根が見えて来る。 まずは朱雀門に到着。門の正面で、内海案内人(No 2579)から説明を聞く。 平城京は西暦710年、ここから南方20KMにあった藤原京から遷都されたもので、再来年には遷都1300年を迎える。 平城京は中国の唐、長安城を模して作られ、東西4.3Km、南北4.8Kmにも及び、人口も10万人が暮らしていたと考えられます。 都が京都の平安京に移る794年までの84年間を奈良時代と呼び、この時代は仏教が広く普及し東大寺を始め、全国に国分寺が建てられ一般の人も信仰し始めた時代です。中国・唐や朝鮮半島など外国からの文化交流が盛んになり、 日本最古の歌集「万葉集」もこの時代に詠まれたものです。 朱雀門は平城京の北端にある平城宮(現在の皇居と国会議事堂、霞ヶ関の官庁街を合わせたもの。東西1.3Km,南北1.0Km)の正面の門で、ここから南に向けて幅79M、長さ約4Kmの大通り(朱雀大路)があり、 南端に平城京の正面玄関である羅城門がありました。これは今の郡山城の約2Km西に当たりこの京がいかに大きかったかが判ります。 朱雀門の中から広大な宮全体を眺めて移動 朱雀門から大極殿 次に、「兵部省」ここは今の防衛省に当たる役所の跡で、ここで兵器や武人の管理などを行っており、8棟の建物跡が柱で復元されています。 兵部省 兵部省解説 その後広大な朝堂院(役人が政務をとる建物)跡を通り、第二次大極殿跡に。 大極殿跡 第2次大極殿説明 実は平城京に都を造った後、740年に恭(く)仁(に)京(きょう)へ遷都した時期があり、その時大極殿はそのまま移築され、745年に再び平城京に都が戻され、元の位置から東側に再建されました。 便宜上最初の大極殿を「第一次大極殿」再建されたのを「第二次大極殿」と呼んでいます。 この第二次大極殿の基壇の上からのながめは最高です。 西に生駒山脈、東に若草山や春日山、そして東大寺の大屋根。また天皇の住まいである「内裏」や広い宮殿群を見ていると奈良時代の官人たちと心が通じる思いがします。 そしていよいよ第一次大極殿の工事現場へ。今回の公開が最後とあって見学者が列を作り続々と入って行きます。 第1次大極殿工事現場 大極殿の名は、中国の天文学でいう「太極星」の事で宇宙の中心にある星「北極星」を表わします。 まず入口で大極殿の説明と工事の進捗状況の写真パネルを見る。その大きさは先ほど見た朱雀門に比べて はるかに大きい。 写真パネル 東西の長さ 南北の長さ 高さ 朱雀門 25M 10M 22M 大極殿 44M 20M 27M 大仏殿(参考) 57M 50M 48M 初重(1階に相当)の柱は直径71CM,長さは5M,本数は44本、 二重(2階に相当)の柱は直径59CM、長さは2、6M、本数は22本使われ鮮やかな朱塗りで見る人を圧倒させます。 天井 また高い天井は格子の間に花鳥の絵がきれいに描かれ、その細かい細工に感心させられます。 階段と足場を通り広い初重の屋根の平瓦や軒丸瓦を見ながら更に二重屋根の部分へ上がると、 平瓦 平瓦・軒丸瓦 重大棟には金色に輝く高さ2Mの鴟尾や中央飾りが載り、垂木先端の木口には透かし彫りの金具などが取り付けられ、 華やかさを出している。初重、二重の屋根には合わせて約10万枚の瓦が敷かれているとの事。 しび 中央飾り 透かし 10万枚工事 壁には緑色の欄格子もはめられ完成が近づいているのが判ります。 会員の皆さんも、二度と見る事のない体験に感嘆の声をあげながら写真を撮ったりしていました。 工事現場の前では瓦製作の実演と体験コーナーや、奈良時代の衣装を見たりで盛りだくさんな催しを楽しんで 特別例会を終えました。 当時の衣装 参加者 尚、「平城遷都1300年祭」は平成22年1月1日~12月31日の期間平城宮跡、奈良県内各地で開催される予定です。 (文 写真:mori) |