第13回  歴史探訪 座学「藤原京から平城京へ」     参加者 22名     2008年11月29日
場所   薬師寺 まほろば会館
講師   帝塚山短期大学  名誉教授 青山 先生

         
                           まほろば会館                              青山先生

 本題に入る前に会場となった「まほろば会館」について説明された。
「まほろば」は12代の景行天皇の皇子である倭建(ヤマトタケル)が父の命令で出雲、九州、蝦夷を攻め続け、大和に帰る途中で病にかかり、望郷の念で詠んだ “倭は国のまほろば たたなずく 青垣 山隠れる 倭しうるわし” から引用したもので、“まほろば”とは「すばらしい所」「美しい所」を意味する。

 薬師寺 高田好胤127代管主は生前「物が豊かになる反面、心が滅びつつある」と心配して、薬師寺の中に一般の人が、文化、歴史などの勉強を通じて精神面を高める場を作りたい、との気持ちを持たれたまま平成10年ご逝去された後この遺志を継がれた寺の方々が、ご逝去10年に合わせて完成された建物であります。
これこそ現代人の講堂に当たるのではないでしょうか。

        
歴史探訪会員

 薬師寺は天武天皇が菟野讃良皇后の病回復を祈って680年に建設を発願したもの(本薬師寺)。皇后の病は治ったものの、686年完成を待たず天武天皇が死去。数年後菟野皇后が天皇となる。
694年に都が飛鳥から藤原の地に遷都され、696年に天皇になった持統天皇が完成した薬師寺で法会を行ったと日本書紀に記載されている。

 日本初の本格的都となった藤原京がたった10数年で幕を閉じ平城京へと遷都される。
その理由として、色々の説があるが、主なものとして

  ・ 世界の中心である唐(中国)の情報が朝鮮新羅を経由してしか入らず、藤原京そのものが時代遅れにな
   っていた。
  ・ 水源としての明日香川の水が乏しく、また下水処理の問題があった。
  ・ 風水思想から見て、都の南側に丘があり相応しくなかった。

などを遷都の理由として、藤原不比等(藤原鎌足の子息)が元明天皇に提言した。
新しい都の選定として、南側が広がっている事と、“まほろば”に謡われている“青垣‘から奈良盆地の北端が選ばれた。平城京の「平」は“なら”と言い“たいらな所”を意味する。遷都した後、薬師寺も718年に移転する。

 現在の考古学者の考えとして、薬師寺の建物や薬師如来像、日光・月光菩薩像などについて、

  ・天平説   これらは、全て平城京に移ってから建てられ、鋳造されたもの。
  ・白鳳説   藤原京で作られた物を移設したもの。

の二説がある。しかし、講師は白鳳説を支持している。その理由として、1981年に宮大工の西岡常一が再建した 西塔 は500年前に焼失したが、建設技術・様式から本薬師寺に建てられ塔であり、平城京に移設された事が明らかである。建設当時から残っている東塔は天平時代の建設である事は皆の一致する所である。
また薬師如来像・日光・月光菩薩像も白鳳期の特徴が出ている。

 それでは、この様な大きく重たい物をどのようにして20数キロも運べたのか、疑問になるが、講師は平城京は藤原京と、下ツ道、中ツ道でつながっており陸路で運ぶ事も可能だし、初瀬川や飛鳥川、また、斎明天皇の悪名高い狂心の溝等も活用したら、現代人が考える程大変な事では無いのではないか。
現代の人は、千数百年前の人の力・技術を今の考え方から否定しがちだが、東大寺の金剛力士像が69日で完成された事が立証されるなど、今の人の想像力が衰えている事をよく認識すべきである。

      
                      まほろば会館に虹                             帰路に就く
                             
感想

 今回の話は紀元前660年の神武天皇から、10代崇神天皇そして元明天皇に至る1300数十年間の物語でついて行くのに苦労したが、日本書紀や古事記などを否定するのではなく、その表現の裏に何が隠されているか、を考える事の重要性と、特に飛鳥、奈良時代の物造り技術が優れていたとの考え方に共感を覚えた。
先生のお話を終え外に出ると「まほろば会館」に虹が出ていました。

                                                                                                                     (文 写真:mori)