第15回歴史探訪の会     お世話人 渡辺雄史さん                 平成21年7月29日
 
 インフルエンザで中止になっていました「神の座を奪われた豊臣秀吉」 メールで中止の案内が出ましたが、
折角勉強していただいた資料を基に皆様方の代表で探訪いたしました。

コース  耳塚―豊国神社―大仏殿跡―方広寺―資料館―馬塚― 今日吉神社―太閤坦―国松墓所
      ―豊国廟を説明を聞きながら 探訪しました。

 織田信長の謀反の光秀を滅ぼし、天下を治め大阪城を築城し、大阪の町を作った 豊臣秀吉が家康に攻め
 られ、結果豊臣家の滅亡にいたった惨めな足跡を検分しました。

耳塚(鼻塚)
 豊臣秀吉の朝鮮出兵で、武将が戦利品として朝鮮軍民の耳を持ち帰った、これを埋めて供養した塚です。
 本当は耳は2つあるために鼻じやないかといわれている。あまりに惨いことから耳と言われるようになった。

豊国神社
 とよくに神社といい大阪のほうこく神社と読み方が違います。天下統一を果たした豊臣秀吉は、1598年伏見
 城で生涯を終えた。

     
               国宝唐門                       豊国神社本殿

 遺骸は東山阿弥陀が峯の頂に葬られ、翌年その中腹に秀吉公を祀る壮麗な豊国社 が創建された。
 翌年大坂夏の陣で豊臣家滅亡、家康により廃祀以後江戸時代は 草に埋もれていました。明治になり天皇
 の御沙汰により、場所を換えて方広寺大仏殿跡地に社殿が再興された。現在の豊国神社はあとで述べま
 す大仏殿の跡地に再建した物です。

           
                    50cm角敷石

 入口石段には「大」の刻印が・・・魔除けとのことです。 唐門は国宝 伏見城の遺構 「西本願寺の唐門と同
 一形式」 敷石は50cm角で大仏殿当時のもの。

大仏殿

     
              大仏殿階段刻印                     敷石の刻印

 天正14年(1586年)秀吉は奈良東大寺に倣って大仏の建立を計画、大仏殿と大仏の造営 を始めた。文禄
  4年大仏殿完成、高さ19mの大仏が安置された。大地震で大仏は倒壊しました。
 大仏殿は高さ49m、南北88m東西54mと壮大で、近くに京都国立博物館がありますが これを含むものでし
 た。

秀頼による造営
 秀吉の子秀頼が遺志を継ぎ大仏の再建を行ったが、鋳物師のミスで仏像が融解し出火 大仏殿は炎上。
 慶長15年徳川家康も諸大名に負担を命じ、自身も米や大工・中井正清を送っている 実は豊臣家の財産を
 出来るだけ使わせるたためで、立派な大仏殿・銅製の大仏は2年後 完成。大仏殿の造営にあたって梵鐘も
 完成、南禅寺の禅僧に命じて銘文を起草させ 落慶法要を行おうとしたところ家康より梵鐘の銘文に対し「
 不吉な語句がある」との 異議があり法要が中止の求めあり。世に言う「方広寺鐘銘事件」

     
                 問題の梵鐘                    ここに書いている

 釣鐘の銘のうち「国家安康」が家康の胴を切るものだと難癖をつけ、これが、
 豊臣家と 徳川の争いに発展、大阪の陣が開戦する 大仏殿は地震・落雷等で灰塵となりその後は再建され
 ることはなかった。 財産減らしにはその他中山寺ほか多くの寄進をさせています。 今も釣鐘と方広寺は現
 存よくも鐘に書かれている小さな文字から見つけ出したものだ。

宝物館
 見どころは加藤さまのすけに何もやるものがないので、歯をあげたものすごい虫歯?千の利休の茶釜を作
 った人が製作した灯篭

     
                 灯篭                         太閤さんの歯


今日吉神社
 秀吉御廟の参道にあり、御廟にお参りに行きにくいように建てられていて、明治期に鳥居を残し参道から右
 手に移動建てられています。 徳川はあくまでも豊臣家を民からも末梢したかった。

      
                豊国参道

     
             旧今日吉神社                       移築後の神社

豊臣国松
 豊臣秀頼の子。母は秀頼の側室伊茶(渡辺五兵衛の娘)国松は生後すぐ若狭京極家に預けられた。大阪
 冬の陣が起こると隠し子の詮議を受けないよう常高院とともに大阪城に入城。翌年の夏の陣の時お城を出
 たが、徳川方の捜索で捕らえられ市中車引き回しの後、六条河原で斬首。

      
                  国松墓

 8歳の国松は幼少ながら徳川家が豊臣家に対して犯した数々の背信行為を糾弾した上で、動揺の色も見
 せず死に赴いた。立派立派 。

今回の歴史探訪は幾度も幾度も建て替えされても旧大仏殿の石を使いその石には 魔除けとして大とか十一
という刻印が多くありました、十一は悪魔は何とか十まで 数えられるがそれ以上は困難とのこと、大はやはり
大文字焼きにあやかって。 興味を引く渡邊さんのお話で歴史探訪を楽しみました。

豊国廟
       
                御廟入口

 豊臣氏の滅亡とともに、廟は破壊され、風雨にさらされていましたが、明治維新で徳川幕府が崩壊すると、
 誰憚ることなく京阪神の庶民は”われらが太閤さん” の墓を旧に復し、お参りするようになった。
 以前のNHK大河ドラマ『秀吉』のトップシーンで幼い日吉丸が力一杯登って行った階段が秀吉の墓・五輪の
 石塔へ向かう階段です。 喘ぎながら探訪参加者は523段階上りお参りしました。立派立派!

     
                 313段目                      あっぱれ523段達成


                                                                                                                     (文 写真:mori)