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更新日:2018年 7月 2日
連載:川越街道 踏破記録

 ※このページは、猪崎 徹さん(3710)が投稿された川越街道の踏破記録を掲載しています。
 川越街道は中山道の板橋宿平尾の追分で分かれる脇往還(脇道)で、日本橋から川越城下
 までは13里(51Km)の道のり。
  平尾追分から川越迄の34kmに、
  ①上板橋 ②下練馬 ③白子 ④膝折 ⑤大和田 ⑥大井 の6つの宿場があります。
 JR埼京線板橋駅をスタートし、川越駅まで川越街道を一日かけて歩いた道中記を8回に
 分けて掲載させていただきます。

 ※川越は、江戸時代より高品質なさつまいもである川越芋photoの産地として全国に知られた所で、
  「栗(九里)より(四里)うまい十三里」という言葉は、 おいしい川越芋の代名詞として
  江戸時代にヒットしたキャッチコピーです。  (∵ 9+4=13)
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  【第1回】 板橋駅から平尾追分
掲載日:2015年 1月17日
  2014年11月15日(土)午前7時、JR埼京線板橋駅をスタート。
 ・板橋駅
  駅の真ん前に新選組近藤勇/ 土方歳三/ 永倉新八の墓がある。
  近藤勇は板橋宿付近で刑死し、首級は京都へ送られ、胴体はこの地に埋葬、近藤勇/土方
  歳三とは袂を分かった元隊士の永倉新八が明治9年に墓を作り、その後本人もここに埋葬
  されたとのこと。 墓石には計110名の隊士の名前が刻まれている。
  因みに、土方歳三の墓は他に2箇所あり、一つは戦死した函館五稜郭、もう一つは出身地
  の日野。 司馬遼太郎の「燃えよ剣」によると戒名も三つある。
  沖田総司の墓は 元麻布の専称寺、しかし墓石を削って持ち帰る女性ファンが多くて墓石が
  ボロボロになり、現在は年一回の総司忌以外は立ち入り禁止とか。
 ・平尾宿
  板橋駅から北上して20分程で、川越街道と中山道の分岐点の
  平尾となる。 中山道は北上して板橋宿の中を歩くことになり、
  川越街道は左折して東上線大山駅へ歩いていく。
  大学受験の時に兄が大山に下宿していたので、受験時には一ヶ月
  程居たことがある。 それ以来の50年ぶりの大山銀座、現在の
  名前は「ハッピーロード大山商店街」。 歩いて昔の下宿を探した
  が、町の様子が変わっていてまるっきり分らなかった。

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  【第2回】 上板橋宿から下練馬宿
掲載日:2015年 1月27日
・上板橋宿
 東上線の中板橋駅の近くに、「豊敬稲荷神社」photoがあり、境内に「上板橋宿の概要図」が
 掲示されていて、このあたりが上板橋宿、家数90戸の小さな宿場だったらしい。
 「上板橋宿概要図」を見ると、宿場の左側を川が流れており、橋がかかっている。
 その橋の名前は「下頭橋」で、橋の手前にある神社は下頭橋六蔵稲荷。
 言い伝えでは、「江戸時代、下頭橋の乞食六蔵は腰が低く徳を称えられ、 死後出てきた
 金銭を元に石橋と祠が建立。寛政年間にかけられた江戸郊外では最初の石橋という。
 この六蔵をまつったのが下頭橋六蔵稲荷。
 更に歩いて東上線の上板橋駅の近くには「子育て地蔵」がある。
 由来をネットで調べたが分からなかった。
・下練馬宿
 東上線の東武練馬駅近辺が下練馬宿で、「大山道標と東高野山道標」がある。
 大山とは、関西の人間には馴染みが薄いが、神奈川県伊勢原市にある大山石尊大権現の
 ことで、博打と商売にご利益があるとして江戸時代には人気のパワースポットだった。
 「大山詣で」は時代小説にもよく出てくる。
 東高野山とは練馬の長命寺のことで、徳川三代将軍家光公より寺領九石五斗を受け、
 武蔵國有数の霊場として栄えてきた寺院とのこと。
 下練馬宿には本陣、脇本陣があったが、通行の大名は川越藩主のみだった。

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  【第3回】 鎌倉街道と小治兵衛窪庚申尊
掲載日:2015年 2月15日

・鎌倉街道
 甲冑の武士が馬にまたがった小さな像があり、青銅の像なので最近置かれたものと考え見向きもしなかったが、同じ
 ものを何度も見かけ良く見たら「鎌倉古道」の標識だった。
 鎌倉街道は、読んで字の如く、鎌倉時代に「いざ鎌倉」と武士が馳せ参じる道。
 但し、いくつもあり特に関東地方に多く東京でも道標を見かけたことがある。
 わからない所も多く、踏破は難しい。
・北町観音
 像と小さな仁王像を祀った北町観音堂があり、練馬区指定の文化財となっている。 特に仁王像は丸みのある穏やか
 な仁王らしからぬ表情で紹介したかったが、直射日光が強くてお堂内の像の写真はうまく撮れなかった。 残念。
・小治兵衛窪庚申尊(こじべえくぼこうしんぞん)
 もう一つの小治兵衛窪庚申尊は、ネットで調べると、
 「昔ここを流れていた百々向(すずむき)川に一本の丸木橋が
 架けられていた。 とてもさびしい場所で、毎晩のように強盗が
 出没し、通行人から恐れられていた。
 ある朝、立派な橋が架け替えられていて、橋のてすりに
 「沢山の悪いことをしたので罪滅ぼしにこの橋を造る。小治兵衛」
 と書かれた木札が下げられていた。
 その後は便利になったばかりか強盗も出なくなった」とのこと。
 一晩で橋ができるか、と突っ込みたくなる。
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  【第4回】 白子宿から膝折宿
掲載日:2015年 3月 1日

・白子(しらこ)宿
 白子は行政的には埼玉県の和光市となり、地下鉄の成増駅近辺。
 渡来人が開いた場所とされ、古くは新羅と呼ばれていたのが白子に転訛した。
・膝折宿
 このあたりは既に朝霞、膝折の地名が珍しく、調べると「小栗判官が名馬鬼鹿毛で逃れる
 最中、鬼鹿毛がこの地で膝を折り死んだことにあるという」とある。
 それではその小栗判官とは「伝説上の人物。常陸(ひたち)の小栗城主で、相模(さがみ)
 の横山郡司の娘照手(てるて)に恋をし結婚するが、横山一族に殺される。
 のち餓鬼の姿となるが藤沢の上人の力により蘇(よみがえ)り、照手が彼を車に乗せて熊野本宮に行き,湯につけると元の姿に戻る。
 説経節・浄瑠璃・歌舞伎に脚色」と言うことで、昔の物語の世界の人気者の一人らしい。
 膝折宿には、脇本陣村田屋(高麗家)が残っていて、今も人が住んでいる。 説明版によると1772年~1789年の間に建造されたもの。
 
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・横町の六地蔵
 少し歩くと行政的には新座市となる。
 道の脇に六地蔵。
 説明版によると1732年建立。
 六地蔵とは、六道
 (地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界)
 に迷う人々を救う菩薩のこと。
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  【第5回】 大和田宿周辺
掲載日:2015年 3月15日

 ・大和田宿
  この辺は既に大和田宿、宿場としての遺構は何もない。

 ・神明神社と野火止用水
  時計を見ると11時、休憩しようと腰掛ける場所を探していたら神社があり社の縁側に
  座って一休み。 ここは神明神社photoで、神社の説明板を読んで「野火止用水」がひっか
  かった。 どこかに記憶がある。
  ネットで調べると「別称伊豆殿堀。埼玉県南部にある江戸時代前期の灌漑用水路の一つ。
  玉川上水の水を小平市中島町の西から導水、新座市野火止原を通り志木で新河岸川に
  注ぐ。 全長 25km、幅約 1m。 承応4 (1655) 年川越城主松平信綱 (伊豆守) が
  幕府の許可を得て住民の飲料水、灌漑用水、雑用水の供給、付近一帯の開発を目的に
  家臣の安松金右衛門に命じて開削」   そうか! 高校の人文地理だ。
  大学受験で必死に頭に詰め込んだ記憶の切れ端がまだ頭の中に残っていたらしい。

 ・鬼鹿毛の馬頭観音
  鬼だの、馬頭だの、おどろおどろしい名前のお堂があった。 中にあるのは三面六臂
  つまり顔が三つで手が六本の観音像。 馬頭と言う以上、馬の顔になっているのかと
  思ったら「観音様」つまり女性の柔和な顔だった。 1696年建立の石像。
  ここでも小栗判官がでてきた。 膝折の伝説では、小栗判官は逃げている時に鬼鹿毛が
  膝を折ったことになっているが、ここでは江戸に急用があって急いでいたことになって
  いる。 まぁ、伝説だし、どっちでも良いけど。
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 ☆ 川越街道 踏破記録 【第6回】 大井宿
掲載日:2015年 4月 1日

・川越街道の並木
 「川越街道」と書いた石碑が道路の真ん中にあり、並木道となって、自動車ではあるものの旧街道の
 雰囲気となっている。 その並木道が延々と続く。 行政的には、いつのまにか「ふじみ野市」と
 なっている。
 聞きなれない名前の市なのでネットで調べたところ、やっぱり平成の大合併で、元は上福岡市と入間郡
 大井町。
 昼食はうどんと考えていたが在るのは何故かラーメン屋ばかり、仕方が無いので定食屋に入りチキン
 定食。
・大井宿
 大井宿も宿場の遺構は何も残っていないが、徳性寺なる寺のあたりが宿場の中心地だったらしい。
 その徳性寺は、門の前に六地蔵があり、門をはいるとすぐ左側に「弘安の板碑」がある。
 板碑とは、板状の石の卒塔婆で、元が侵攻した弘安の役の弘安4年(1281年)の銘がある。


・角の常夜灯
 普通の常夜灯と異なる珍しい柱状の常夜灯
 があり、説明板に「角の常夜灯」とある。
 旧川越街道と地蔵街道の交差するこの地を、
 角(かど)と呼びます。
 丹沢に大山へ参詣する際に亀久保村から
 最初の曲がり角に建つ常夜灯なのでこの名
 があります。 この常夜灯は1802年建立。
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  【第7回】 地蔵院・烏頭坂
掲載日:2015年 4月15日

・地蔵院
 門の前に仁王像のある立派な寺があり、立ち寄った。
 寺の名前は地蔵院。
 寺をはいると「無憂樹」の説明板が目を引いた。
 晩秋なので樹自体は葉も実もついていない枯れ木のような樹で
 写真は省略するが、説明が面白い。どんな花が咲くのだろうな。

・烏頭坂
 川越駅近くにあるのが烏頭坂、難所という程の坂ではない。
 説明板の歌の意味がわからずネットで調べたが、よくわからない。
 「これは、母鳥が“うとう”と呼ぶと子鳥が“やすかた”と鳴く習性を
 利用し子鳥を誘き寄せて狩をしたという悲しい昔話によるもので
 あります。 それ程この坂は苦しかったのでしょう」

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  【第8回】 川越宿(完)
掲載日:2015年 5月 1日

・川越宿
 小江戸と呼ばれる川越の蔵造りの町並みが見えて来たので、ひとまずゴールインとし、
 時刻は午後2時半。
 町の角かどに案内板があり、分かりやすいが、何しろ観光客が多い。
 観光メインストリートの蔵造りの通りを歩き、土産物屋で「川越いも」のせんべいを
 買い、時の鐘を見ながら歩き、川越城へ。
 城と言っても天守閣は無く、川越城本丸の前で、居合わせた人にシャッターを押して
 もらって記念写真。 また観光メインストリートに戻り、川越駅に到着したら4時に
 なっていた。
 さすが小江戸、観光するのに1日は必要。
・今回の川越街道の踏破で通過した街のマンホールの蓋
 和光市は市章と市の花サツキと市の木イチョウの葉、新座市は市章と市の花こぶしで
 市章を囲み周りに市の木モミジの葉、三芳町は町の木ケヤキと町の花キクと、町の鳥
 ヒバリ。
 川越市のマンホールの蓋は3種類見つけた。
 左側は時の鐘をデザインしたもの、真ん中も時の鐘のデザインだが「小江戸川越」が
 ある。 右側は市章と市の花・やまぶき。
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 ※こちらもご覧ください
  猪崎 徹さん(3710)の 「連載 : 東海道五十三次踏破記録」 ←クリックすると開きます。
  猪崎 徹さん(3710)の 「連載 : 中山道六十九次踏破記録」 ←クリックすると開きます。
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