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更新日:2018年 7月 2日
連載:中山道六十九次踏破記録(詳細PDF付き)

 このページでは猪崎 徹さん(3710)が投稿された「中山道六十九次踏破記録」を1日目から最終の19日目まで順次掲載します。
 各回の詳細な踏破記録は、pdfファイルでご覧いただけます。
 (注)pdfファイルを開くにはpdf readerが必要です。
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  ■はじめに
   お江戸日本橋を2014年9月6日に出発して中山道69次534Kmを歩き、延べ19日目の2015年12月5日に、京都三条大橋に到着した記録です。
   中山道は東海道と異なり、明治以降は「文明開化」に取り残されたところが多く、例えば東海道の旧旅籠で現役の旅館として残っているのは
   1軒だけですが、中山道には何軒もあり、更に木曽など山の深いところが多く1000m以上の峠も碓氷峠(1195m)・和田峠(1599m)・鳥居峠
   (1212m) と三つあります。 又、公共交通機関の無い宿場も多く、野生のカモシカ、猪、猿、雉にも遭遇し、苦労したところもあるものの、
   それ以上に楽しいことの多い旅でした。

 ※タイトル(青字の部分)をクリックすると、記事にジャンプします。

 ☆中山道六十九次踏破記録 1日目
掲載日:2016年 1月 9日

【1日目】 日本橋-9.8Km→ 板橋-8.9Km→ 蕨-5.6Km→ 浦和-5.0Km→ 大宮-7.9Km→ 上尾
 2014年9月6日(土)、旧中山道69次534Kmウォーキングを日本橋からスタート。 時刻は午前7時、天候は曇り。
 ■お江戸日本橋
 日本橋には日本の道路の原点となる道路元標と、西は鹿児島、東は札幌までの里程標がある。 東の里程表を見ると新潟まで344Km、仙台
 まで350Kmとあり旧東海道の41番目の宿場の名古屋の宮まで347Kmなので、新潟/仙台は名古屋とほぼ同じ距離となる。
 今迄、両市とも名古屋よりもはるかに遠いと考えていた。
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 ■日本橋界隈
 旧中山道は日本橋を北上、左側にデパート日本橋三越があり、当然早朝なのでクローズ。
 玄関のライオン像は2匹とも黄金のマスクをしていた。 マスクはどんな意味があるのかと思って
 ネットで調べると、「ワンダー・マスクアート博物館」を開催していて、能面や民族マスク等を
 展示しているらしい・・・ただの宣伝だった。

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 ☆中山道六十九次踏破記録 2日目
掲載日:2016年 2月 1日

【2日目】 上尾-3.7Km→ 桶川-7.2Km→ 鴻巣-16.4Km→ 熊谷
 2014年9月13日(土)、JR高崎線上尾駅をスタート、時刻は午前7時、天候は曇り。 5時に大森を出た時にはさほどでもなかったのに、半袖
 Tシャツでは肌寒い。 海岸部と内陸部では温度差がある。 歩いていれば温まるさと旧中山道を歩き始める。
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 ■桶川宿 6番目
  上尾から1時間弱で6番目の宿場の桶川に到着する。宿場の入口に木戸跡があり、宿場の案内があって比較的整備されている。
  この地では、江戸時代から染料として紅花の栽培がはじまり、桶川臙脂(えんじ)の名で有名だったとのこと。
  ・まず目を引く旧家は桶川の特産品である紅花を商っていた矢部家で、土蔵造りとなっていて、2階の土蔵窓が目を引く。
  ・また3階建ての土蔵もあった。 この3階建ての土蔵は、飢饉の時に多くの人を雇用して建築し、お助け蔵と呼ばれたとのこと。
   旅籠の雰囲気を残す旅館も現役で営業している。
  ・本陣は残っておらず、跡を示す碑と門のみである。 紅花饅頭の看板があったが、早朝にて売っていなかった。
  ・商女館!・・  その看板に一瞬ドッキリ、よく読めば商工会議所の女性部の建物なのだが、当方の考えがいやらしいせいなのか、
   連想が良くない。 或いは、案外それを考えての、ドッキリ狙いかも。
  ・大雲寺と女郎買地蔵
   宿場のはずれにある大雲寺の地蔵は夜な夜な女郎を買いに行く為、困った和尚が 地蔵の
   背に鎹(かすがい)を打ち付け、鎖でつないだそうである。
   写真の3体の地蔵の、向かって右側の地蔵がそうで、他の2体が面長であるのに対し、右側
   の地蔵は丸顔で、結構柔和な感じである。
   確かに、その背中に「かすがい」がうちつけられていて、痛々しい。
   女郎買いのお金はどうしたのだろうか、賽銭を盗んだのか?

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 ☆中山道六十九次踏破記録 3日目
掲載日:2016年 3月 1日
【3日目】 熊谷-10.8Km→ 深谷-10.6Km→ 本庄-7.9Km→ 新町-5.9Km→ 倉賀野-6Km→ 高崎
  2014年9月20日(土)、JR高崎線熊谷駅をスタート、時刻は午前7時、天候は曇り。 熊谷駅前には熊谷次郎直実の像があり、墓がある熊谷寺
  に寄るつもりだったが、標識が全く無く、通りすぎてしまった。
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 ■深谷宿 9番目
  熊谷から2時間程で9番目の宿場の深谷に到着する。宿場の入口に愛宕神社があり、芭蕉の句碑がある。 次にあるのは「見返りの松」で、
  これは旧中山道並木の最後の1本。 街道沿いに中学校、小学校、高校と並び、小学校では万国旗で校庭を飾って運動会の真っ最中。
 ■深谷の旧家とJR深谷駅
  本陣は残っていないが、比較的古い建物が多い。 曰くありげな建物があり、掃き掃除をしていた人に聞いたところ80年前に 建てた個人の
  家。許可を得て写真を撮る。 目を引いたのは、煉瓦でうだつを作った家。ここは煉瓦の産地でもあり東京駅の赤煉瓦はここの煉瓦を使って
  おり、JR深谷駅は同じ赤煉瓦を使っているとの事で深谷駅に寄り道。確かに東京駅と似ている。 普通に漆喰を使ったうだつの旧家photoもある。
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 ■清心寺とマネキン人形
  なんとなく尼寺のような名前の清心寺。 因みに近くには「呑龍院」の名の寺もあり、これは破戒坊主の寺なのではと思ってしまう。
  深谷は源平合戦で平忠度(ただのり)を討った岡部六弥太の所領であり、岡部は平忠度の墓を清心寺に建てた。
  忠度は一の谷の戦いで死んだが、その官名は薩摩守、電車等の無賃乗車を意味する薩摩守の語源となり、現代にその名を残している。
  歩道を歩いていると若い女性が目の前に立っていてびっくり。よく見るとマネキン、普通、道には出さないよなぁ!
  深谷宿のはずれに芭蕉の句碑があり、更に百庚申があった。この百庚申は世情の不安を鎮める為に100体の庚申を万延元年に建てたもの。
  百よりは少ない気もするが。

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 ☆中山道六十九次踏破記録 4日目
掲載日:2016年 4月 1日
【4日目】 高崎 -7.2Km → 板鼻 -3.3Km → 安中 -9.6Km → 松井田 -9.5Km → 坂本
  2014年10月4日(土)、高崎駅をスタート、時刻は午前8時、天候は曇り。 前回は高崎駅に直行したので、高崎宿の旧跡をまず見て回る。
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 ■高崎宿 13番目
  高崎は城下町であり、本陣や脇本陣はない。旧中山道から外れて、高崎宿内の頼政神社に寄り道。頼政と言えば鵺(ぬえ)退治の源三位頼政、
  その頼政が高崎で一体何をしたのかと興味があったが、江戸時代にこの地を治めた大名が、自分の祖先は源頼政であるとして、この神社を
  建立したらしい。 この神社には内村鑑三記念碑もあった。内村鑑三は高崎藩士の息子で、高崎で育ったとのこと、鑑三の漢文の無韻詩を
  彫った石碑もあり、現代語訳では「上州は無智無才であり、意志が強く言葉を飾らない為、人に欺かれやすい、ただ正直をもって万人に接し、
  まごころを尽くして神による勝利を待つ」。 別に上州人に限らない話だと思うが、最後の神云々が無ければよいのに。
  この頼政神社のそばに高崎城址公園があり、その横を歩いていると、窓の庇にまでワインの瓶を並べて飾った家があり、酒屋でも飲食店でも
  なさそう。後で、写真を拡大したら、玄関の右の小さな黒板に「しゃぶしゃぶ、すきしゃぶ、焼しゃぶ」と書いてあるのに気がついた。
  左側の窓に吊り下げられた黒板にはワインリスト、つまり、ビンテージワインを揃えたしゃぶしゃぶの店。
 ■駿河大納言の墓
  中山道を少し離れて、徳川秀忠の3男で、家光との将軍後継争いに破れて自刃した、駿河大納言徳川忠長の墓のある大信寺に立ち寄ったが、
  早朝で寺はクローズ。ゲートを覗きこんだところ、境内には幼稚園があり、見える範囲に墓はなかった。
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 ■古い商家と天守閣
  高崎の市街地を通り抜け、郊外を歩いていると古い煉瓦の煙突と古い商家、のれんを見ると醤油屋だった。また、最近の建築だと思うが、
  敷地内に「天守閣」を建てた民家があった、どんな人が住んでいるのか気になる。
 ■ダルマ
  郊外の若宮八幡宮に「源義家腰掛け石」があるとのことで、神社に立ち寄ったが、山門には蜘蛛の巣、境内には雑草が生え、案内は無く、
  腰掛け石は見つからず。浅学にして知らなかったが、高崎はダルマの産地、ダルマ製造卸の看板があったし、コンクリート製のダルマを店頭に
  置いた大きなお店もあった。 又、少林山達磨寺の標識があり、ダルマの寺もあるらしい。 選挙以外にダルマの用途があるのか不思議。

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 ☆中山道六十九次踏破記録 5日目
掲載日:2016年 5月 1日
【5日目】 坂本 - 11.7Km → 軽井沢 - 4.4Km → 沓掛 - 4.3Km → 追分 - 5.0Km → 小田井 - 4.7Km → 岩村田
 ■横川駅スタート   2014年10月11日(土)、JR信越本線横川駅をスタート、時刻は午前8時15分、天候は晴れ。
 ■坂本宿 17番目
  横川駅から30分程坂道を登って坂本宿に到着。 前回は下木戸跡まで来た後、横川駅まで引き返したので、改めて宿場としての遺跡を探し
  ながら歩く。
  山の中ながら、往時は碓氷うすい峠を越える旅人が必ず体を休めたので、宿場としては繁盛していたらしく、本陣が2つ、脇本陣は4つあった。
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  その一つの佐藤本陣は坂本小学校の仮校舎となり、その後、子孫が跡地に上州櫓作りの立派な家を建てている。
  永井脇本陣は門と庭園が残っていて、元の建物の立派さを偲ばせる。
  町人等の一般の人が泊まる旅籠の「かぎや」は建物が残っていた。この「かぎや」の商号は、高崎藩納戸役鍵番をしていた先祖が、坂本に
  移住して旅籠を開業するにあたり、今迄の仕事の鍵を屋号にしたものとのことで、屋根に平仮名で「かぎや」とかかれた看板が残っている。
 坂本宿の外れに坂本八幡宮があり、境内に芭蕉の句碑
 「ひとつ脱て うしろに負いぬ 衣かえ」。
 この句碑は、後にでてくる碓氷うすい峠越えの刎石はねいし坂にあった
 もので、汗だくで山道を登る旅人を詠んだもの。
 ■碓氷うすい峠越え 入口
  坂本宿を出ると、いよいよ碓氷峠越え。 宿場の出口で早速道に迷った。 道路は左に曲がっているが、地図では中山道はまっすぐ、しかし
  まっすぐだと道とは言えない草むらの中を行くことになる。 引き返して農作業中の人に聞くと地図は正しく、草むらの中を歩いて林の中に
  入り、踏み分け道を歩いていくとまた自動車道に突き当たり、バス停があってその横が碓氷峠への登り口。
  いつものウォーキングシューズに替えて本日はトレッキングシューズ、その靴ひもを締め直していざ行かん! 最初は雑木林の中のゆるやかな
  山道だったが、急勾配の坂道へと変わり本格的な山道となる。  ジグザグの足場の悪い道を登っている途中で、蒲の穂みたいな白い筒状の
  ものが何本も揺れているのが気になり、よくみたら白い花だった、初めて見る花だが名前は何だろう?
  岩道となり、その岩が「縦(タテ)」になっていて説明板があり、柱状節理と書いてあった。
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 ■刎石はねいし坂、覗き、弘法大師の井戸
  刎石坂には上り地蔵下り地蔵(板状の石に書かれた地蔵)があり、説明板には十返舎一九の歌「たび人の 身をこにはたく なんじょみち
  石のうすいの とうげなりとて」があり、碓氷のうすいと地蔵の板状の石の薄いにかけたらしい。 木々に隙間があり、下界が見える
  「覗き」に到着、麓の坂本宿が木々の間から覗けるのでこの地名。 小林一茶がここで「坂本や 袂の下の 夕ひばり」と詠んだ。
  道脇の少し平らなところに「弘法の井戸」があった。  全国にある、弘法大師が示したところを掘ったら水が出たと言う井戸・・・
  井戸と言うよりも泉で、置いてあった長さ1m程の柄杓で水を汲み、手にかけたが、綺麗で冷たい水だった。
  さすがに、飲む気にはならず、ペットボトルの水を飲んで一休み。

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 ☆中山道六十九次踏破記録 6日目
掲載日:2016年 6月 1日
 ■はじめに
  お江戸日本橋を2014年9月6日に出発して中山道69次534Kmを歩き、延べ19日目の2015年12月5日に、京都三条大橋に到着した記録です。
  中山道は東海道と異なり、明治以降は「文明開化」に取り残されたところが多く、例えば東海道の旧旅籠で現役の旅館として残っているのは
  1軒だけですが、中山道には何軒もあり、更に木曽など山の深いところが多く1000m以上の峠も碓氷峠(1195m)・和田峠(1599m)・鳥居峠
  (1212m) と三つあります。 又、公共交通機関の無い宿場も多く、野生のカモシカ、猪、猿、雉にも遭遇し、苦労したところもあるものの、
  それ以上に楽しいことの多い旅でした。 京都三条大橋到着までの述べ19日の記録を掲載させて頂く事になりました。

 ※昨年10月11日に岩村田宿到着し、その後中断していた中山道ウォーキングを再開。2015年4月17日早朝に北陸新幹線はくたか551号で東京駅を出発。
  佐久平駅着は7時45分、天候は曇り、約20分程歩いて前回到達した岩村田宿に到着。

【6日目】 岩村田 -5.1Km→ 塩名田 -2.6Km→ 八幡 -3.7Km→ 望月 -5.2Km→ 芦田 -5.5Km→ 長久保 -7.4km→ 和田 合計 29.5Km
 ■岩村田宿 22番目
  岩村田宿は宿場としての遺構は殆ど残っていない、早朝でもありシャッターが降りている
  商店街のアーケードの下を歩く。 歩道上のタイル絵は招き猫ならぬ招き狐で面白い。
  これは「百姓の嫁が田植えの手伝いを友達に頼み、田植えは無事済んだものの狐である
  ことがバレそうになり、百姓と息子を残して消えてしまった・・狐の女房」との言い伝え
  に基づくものらしい。 また、商店のシャッターの絵の中で学習塾のものが面白かった。
  岩村田宿の外れに、和宮が休憩して野点をしたと言う相生の松があり、男松と女松が同じ幹から出ているのということで有名だったが、枯れ
  てしまい現在は3代目。 松の手前の碑の歌が分からずネットで調べたところ「其むかし業平あそむの尋ねけん おとこ女の松の千とせを」
  とあった。因みに、相生の松は日本全国に沢山あるそうで、縁結び,和合,長寿の象徴だとか。
  塩名田宿の手前に重要文化財 駒形神社とあり、石段を上がって鳥居をくぐると何やらHな感じの石があって「子宝の神様 福招きの石」と
  書かれていた、なるほど!
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 ■塩名田宿 23番目
  時折雨がパラパラと降り、傘をさすほどではないが寒い。 塩名田の宿にはいると、街道に面した家には、かってそこにあった建物の屋号の
  看板がかかっている。 最初に目を引いたのは「釜鳴屋」、一体何の商売かと思って良く見ると茶屋と書いてあった。 さぞかし釜をシュン
  シュンと鳴らしたのだろうな。 この宿場は旧家が多く、本陣も残っている。 中でも目を引いたのは佐藤家住宅、2階の窓の下の出っ張り
  が湾曲しており、年月を感じさせる。
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 ■千曲川
  塩名田宿は千曲川の渡し場でもあり橋がかかっているが、昔は橋をよく流され、徒歩や舟で渡ることも多かったという。
  川原に立札があって、「舟を繋いだ舟つなぎ石はどれでしょう?」と書かれていたが、分からなかった。

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 ☆中山道六十九次踏破記録 7日目
掲載日:2016年 7月 1日
【7日目】 和田宿 -22.6Km- 諏訪宿
  2015年4月17日の夕刻に和田に到着し民宿で一泊、民宿の主人によれば、天気予報では17日は19℃の予定が、11℃までしか上がらず、更に
  和田宿(標高800m)の18日の予報は0℃、越える予定の和田峠は標高1530mなので、多分氷点下2~3℃とのこと。 当地は北海道と同程度の
  気温で5月に雪が降ることもあるらしい。 同宿の人は、東海道は踏破済みで、既に延べ10日以上かけて日本橋から歩いてきており、本日は
  同じ新幹線に乗っていて、佐久平からバスに乗り、芦田宿からゆっくりと歩き、既に和田峠の1100mの地点まで歩いている。
  トレッキングシューズに作業ズボンの私に対し、その人は登山靴にスパッタの本格的な登山装備なので、2時間程後発する私はその人の足跡
  を辿っていけば良いと一安心。 「熊出没」についてもその人が「露払い」となるだろうし、などと勝手に考えてしまう。
 ■和田宿スタート
  7日目の4月18日、起きて見ると屋外の車の窓は霜で真っ白、前日と異なり、雲一つ無いきれいな青空で風も殆ど無い。
  朝食を取り、昼食用に作ってもらった大きなお握り2個を受取り、これだけ寒いと残雪は固くて歩きやすいと勝手に解釈し、持ってきたもの
  を全て着込み、民宿の主人に前日到達地点まで車で送ってもらう。
 ■和田峠越え
  7時半、芹沢1里塚から和田峠越えをスタート、同宿の人は歩く時間にして2時間ほど私よりも先行している。しばらく歩くと暑くなり、着て
  いるものを1枚づつ脱いでいく。日差しが眩しく、サングラスをかける。  2時間程歩くと、唐沢一里塚で中山道は一般道からそれて山道と
  なり、小さな一山を越えると又一般道になり、それを繰り返しながら次第に高度が上がって行き、1100m地点に達したのは10時頃。
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  中山道は自動車道になったり、山道になったり、自動車道の時は歩道が片側にあったり、無かったり、その片側の歩道も右側だったり、左側
  だったり。  手書きの中山道の標識が曲がり道に必ずついていて親切なのだが、歩いている側と逆の側に標識があって見落としてしまい、
  30分歩いて間違いに気が付いて標識のあるところまで逆戻り。 前から歩いてくる人があり、挨拶を交わして聞くと、諏訪からバスで来て、
  和田峠を越えてからバスを降り、歩いて和田宿へ向かっているとのこと。私がこれから峠を越えると知ると、同行することを考えたらしく、
  二つの質問をしてきた。 一つ目は雪対策、私は2時間程先行している人がいるので、その足跡を辿っていくと返事。 2つ目は、熊鈴を
  持っているのか、もちろん持っていない。 熊対策はどうするのかとの質問に対しては、「人里に現れる熊は鈴程度では驚かないし、熊に
  会う確率は非常に低い」と返事した。 で、結局その人は峠越えを断念し和田宿へ歩いて行った、やれやれ。
  大体、宝くじに当たらないのに熊に当たるハズがない!
 ■接待所と巡査殉職碑
  やがて「接待所」にたどり着いた、これは江戸時代からの建物で、中は土間に
  なっていて炉が作ってあり、屋内で煮炊きができるようになっている。
  その近くに「近藤谷一郎巡査 殉職の地」と書かれた石碑があった。 ネット
  で調べると「明治22年近藤谷一郎巡査が護送中に逃走した犯人を捕まえようと
  この付近の谷川で格闘となり、腹部を刺され殉職したということの供養碑」と
  のこと、明治時代の話だった。

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 ☆連載 中山道六十九次踏破記録 8日目
猪崎 徹さん(3710)から
掲載日:2016年 8月 1日

【8日目】 諏訪宿 -11.7Km - 塩尻宿 -6.5Km- 洗馬宿 -3.3Km- 本山宿 -7.7Km- にえ川宿
 2015年5月22日、新宿7時発のスーパーあずさ1号に乗り上諏訪で各駅停車に乗り換え、下諏訪到着は翌朝9時半。
 ■万治の石仏
  まず、諏訪神社春宮の近くなのに前回見落とした万治(まんじ)の石仏へ。
  万治3年(1660)と刻まれているのでその名がついたもの。
  鼻が高くて面長で常識的な「仏像」の顔と異なり、胴体部分は手抜きして線刻に近く、
  稚拙とも思えるが、前に立つとその存在感に圧倒され、無言で暫らく佇み、合掌。
 ■諏訪から岡谷へ
  中山道に戻り、下諏訪の街中を歩く、標識が無ければ絶対に足を踏み入れないような家と家の間の狭い「軒下」を通る箇所もある。
  又、玄関の上に弓と矢を飾っている家を見かけたが、このあたりの風習だろうか?
  いつのまにか、諏訪市から岡谷市に変わり、遠くに見えていた山の緑が段々近くなり、木立が増え、山へ入る前に立派な旧家があり、
  「今井小休本陣」と書かれていた。 この付近は旧今井村で、峠への登り口の休憩所だったとのこと。
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 ■塩尻峠
  山道を上がり標高 1055mの塩尻峠へ登る。
  岡谷市街地は約800mあり250m程の山に登るのと同じで、道は広いが急勾配もあり、途中
  で膝を休めながら登り、急に視界が開けて自動車道と出会ったところが峠。
  ここでコンビニで買った握り飯の昼食。 峠の上には比較的新しい神社と明治天皇旧跡が
  あったが素通り。 下り坂の途中にあったのが大小2つの親子地蔵。小さい方は笑っている
  ように、大きい方は泣いているようにも見える。 その地蔵の横に立っていたのが「夜通道」。 娘が夜這いに通った道のこと。
  だからどうしたのと言いたくなるし、それと地蔵の関係が 分からない。 山道に「留山につき許可無く入山禁止」とあり、「留山」とは
  何かが気になってネットで調べると、昔の幕府や藩の公用林らしいが、山主と書いてあるので明らかに今は私有地、謎は解けない。
 ■奥穂高
  峠を下り始めると、眼下に松本盆地。
  正面に見える雪で白く輝く山々は奥穂高。
  スーパーあずさは登山姿の中高年の男女で一杯だったのを思い出した。
  この松本盆地はどこでも、見晴らしさえ良ければ、周囲の白く光る山々が見える。
  ここは「信州」を実感する。


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 ☆連載 中山道六十九次踏破記録 9日目 贄川宿から福島
猪崎 徹さん(3710)から
掲載日:2016年 9月 1日

【9日目】 にえ川-7.1Km- 奈良井-5.5Km- 藪原-7.5Km- 宮ノ腰-8.7Km- 福島
 2015年5月23日、塩尻のホテルを出てJR中央本線に乗り、贄川駅下車、昨日よりやや雲が多いもののいい天気、贄川宿を7時半スタート。
 ■平沢
  贄川を出て、奈良井川沿いに、JR中央本線と並行し、山道と国道19号を繰り返しながら歩いていく。
  最初の人家は長瀬集落、家の前の掃除をしている人と朝の挨拶を交わして通り過ぎる。 その次は集落と言うよりは町となり、JRの駅もある
  木曽平沢。 生憎道路工事をしていたが、宿場町と間違えそうな、「うだつ」のついた立派な旧家が道の両側に並び、殆どが漆器の店。
  ここは木曽の木工品の町で工房も並び壮観、しかも1Km近くその漆器の店が延々と続き、過当競争でつぶれないのかと気になる。
商店街を過ぎると小学校があり、これも純木造(多分木曽檜)で、時計塔も木造、鉄筋コンクリートは体育館だけ。 木造の校舎っていいなあぁ! 教室や廊下を裸足の小学生が走り回る光景が目に浮かぶ。
 ■奈良井宿 34番目
  平沢を抜け、暫らく歩くと奈良井宿。 かなり手前から奈良井宿が見え始め、今迄の宿場で
  みたことのない程の人だかりが見える。 近づくと中学生の団体さんで、更に外人客も
  多い。 宿場に入ると、その理由が分かる。 江戸時代の宿場そのままの建物が両側に
   並び、まさにタイムスリップしたかのよう。民宿をしている旧家も沢山あるようで、その旧家から出てくる人達も多い。
   案内図を見ると、旧家は殆ど土産物屋・食堂・ 民宿つまり何らかの営業をしており、そのせいか宿場全体が生きているようで活気がある。
   修学旅行の中学生は土産物屋と食べ物の店に群がっている。
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  この宿場の建物の特徴は1階の庇。 建物に取り付けた横木の下に屋根板が取り付けて
  あり、その横木が面白い形をしていて、「猿頭(さるがしら)」の名がある。
  言われてみれば、猿が連なっているようにも見える。 屋根板を猿頭に下から打ち付け、
  泥棒がその屋根板に乗ったら屋根板が落ちる、つまりセキュリティが目的の構造らしい。
  宿場の奥に有料で見学できる民家で「櫛問屋」の中村邸があり、300円也を支払って見学。
  通りに面しては「しとみ戸」、2階があり中央部は吹き抜けとなっていて囲炉裏がある。
   裏庭には土蔵があって様々な「櫛」を展示しており、「花魁おいらん」が髪にさしている「かんざしとこうがい」もあった。


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 ☆連載 中山道六十九次踏破記録 10日目 福島から三留野
猪崎 徹さん(3710)から
掲載日:2016年10月 1日

【10日目】 福島-8.5Km-上松-12.1Km- 須原-7.5Km-野尻新10.1Km-三留野 み ど の
  2015年6月5日(土)新宿23:20発の夜行バスでの翌朝5時に中津川駅着。 開いている食堂はなく、コンビニでコーヒーとサンドイッチの朝食。
 座って飲食できるのでコンビニは本当に便利。 始発6時の電車に乗って7時に木曽福島駅着。
 前夜の雨はやみ、青空が見えているものの気温は10度で冷たく、長袖のシャツを取り出して着る。
 ■御嶽山遥拝所
  福島を出ると最初の集落は塩渕。 塩の着く地名が多いが、説明板には「シオ」の地名は川の曲がった部分に付けられることが多いとか。
  「御嶽山遥拝所」の看板があり、階段を登ると鳥居があって立木越しに向こうの山の稜線の切れ込みが見える。 多分、その真ん中に御嶽山
  が見えるのではないのかと想像するが、霧でなんにも見えない。 説明板には、遥拝所は4箇所あり、北と西に各一箇所、東に2箇所で鳥居峠
  とこの地。 そう言えば鳥居峠でも何にもみえなかった。 やはり信心が無いせいか、行いが悪かったのか、両方ともか。
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  昔ここには絶壁に並行して横に架けられた桟道があり、難所として有名だった。 その跡を探したが良くわからなかった。国道の高いところ
  から見ると、この付近は木曽川の両側の平地が少なく、山腹が川に迫っているので難所だったことが良くわかる。 私には迷い込んだ竹林の
  ほうが難所だったが。歩き続けて、ズボンが乾いたところでスペアの靴下に履き替える。 靴は濡れたままだがやむを得ない。
     ext_link 正岡子規 桟の記の解説ページ
 ■上松(あげまつ)宿 38番目
  上松宿の入口に十王堂石仏群があり、その中に双体道祖神を見つけたが、線が摩耗しておらず鋭角で、デザイン的に見ても現代の作品。
  上松宿には宿場遺構は残っていないものの旧家は沢山残っている。 旧家でも現代建築でも、どの家も玄関の脇に枯れた木の枝を飾っている。
  多分魔除けかなにかだと思うが、何の木だろう、ネットで調べても分からなかった。まさか「ひのき」ではないだろうな。
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  一軒の旧家で、玄関の上に碍子(がいし)が残っていた。 昔、大正・昭和の時代の配線は
  こんな碍子で、小さい頃、旧家に取り付けられていたのを記憶しているが、久しぶりに
  見た。 この宿場の街灯も楽しい、行灯型でしかもその下にある「ひのきの里」のSLも
  いい。 このSLは木曽森林鉄道で木材運搬用に活躍したもの。
  また、宿場の至るところには、「祝御獄海十両昇進」のポスターが 至るところにあり、
  この5月の場所で昇進したらしく長野県内出身では37年ぶりとのこと。
  オラが町の力士らしいが、御嶽は山なのにどうして海がつくの?。
 


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 ☆連載 中山道六十九次踏破記録 11日目 野尻から中津川
猪崎 徹さん(3710)から
掲載日:2016年11月 1日

【11日目】 野尻-10.1Km-三留野-3.2Km-妻籠-7.3Km-馬籠 4.6Km-落合-4.1Km-中津川
 新宿発の夜行バスで6/26(金)の朝5時に中津川駅着、6時の電車に乗り6時半に前回到達点の十二兼(じゅうにかね)駅に到着
 ここは無人駅で最後尾の車掌さんにチケットを渡すことになる。傘をさす程ではない雨がポツリポツリと降っている。
 ■十二兼じゅうにかねと南寝覚
  十二兼は野尻宿と三留野宿の中間地点、珍しい名なので、何かの言われがあると思いネットで調べたが、表千家流の茶人の堀内十二世である
  堀内家十二世兼中斎(大正から昭和の人)からきたこと以上のことは分からなかった。
  木曽川沿いに歩いていくと、柿其(かきそれ)橋から奇岩巨岩の渓谷が見え、寝覚の床に似ていることから「南寝覚め」と呼ばれている。
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 ■羅天の桟道
  歩いている中山道は木曽川の左岸の山腹を走る国道19号線の歩道であるが、旧中山道は右岸の岸壁沿いの桟道であり、島崎藤村の夜明け前
  には「あるところはそばづたいに行く崖の道であり」と書かれている場所で、木曽屈指の難所と言われた羅天の桟道があった場所とのこと。
  対岸の岸壁を良く見ると、岩に人が手を加えた跡が分かり、羅天の桟道の一部と思われる。
 ■三留野宿 41番目
  41番目の三留野(みどの)宿に到着、旧家が何軒か残っているのみで宿場の遺構は見当たらない。中山道は人家の庭先を通っており、何となく
  身をかがめてそっとその庭先を通り抜ける。 道の両側の山々は雲に覆われ、雨つぶが大きくなり、傘をさしカメラが濡れないように注意
  しながら歩いていく。 三留野宿のはずれで、道の両側の植木が見事に手入れされているところがあり、人家の庭に迷い込んだのかと一瞬
  あせってしまった。
 ■かぶと観音と振袖松
  庭園道路の集落の先に、木曽義仲のかぶと観音と巴御前の振袖松がある。 かぶと観音の名前の由来は、
  仏像の体内に義仲の兜の八幡座(兜の一番上)の観音像を納めたことによるとか。
  観音を収めている観音堂よりもその前にある鬼瓦の親分のような石造物が面白い。
  その横にあるのが振袖松で、由来が書いてある。 また、上久保一里塚のそばに良寛の歌碑があった。
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 ☆連載 中山道六十九次踏破記録 12日目 中津川から大湫 new!
猪崎 徹さん(3710)から
掲載日:2016年12月 1日

【12日目】 中津川-11.3Km-大井-12.3Km-大湫 おおくて
  2015年6月27日、馬籠を午前7時発のバスに乗り7時半に中津川駅着、天候は曇り。 中津川市の中山道を歩き始める。
 ■中津川宿 45番目
  中津川は、新宿と高速バスで繋がっており、中津川駅には何度も来ているが、本日は中山道なので初めての街となる。
  最初に目についたのが、「すや」で江戸時代から栗きんとんで名高いお菓子屋、早朝で開いていないのは残念。
  桂小五郎隠れ家の矢印があり、その矢印に従って細い路地をたどると「見越しの松」の粋な旧家、料亭「やけ山」の跡で、そこに桂小五郎が
  隠れていた。 本陣や脇本陣は残っていないが、長い宿場には立派な旧家が沢山残っていて、その殆どが現役の商店か住居。
  また、「往来庭」なる江戸時代の横丁を再現した休憩所が作られており、旅人には有難いが早朝のこととて横丁の中の店は全てクローズ。
  商店の前の掃除をしている人も多く、「お早うございます」と声をかけて通り過ぎる。 四ツ目川にかかる橋から見ると、川の上流も下流も
  雲で見通し悪く、見えるハズの恵那山も見えない。
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 ■双頭一身道祖神
  高札場を過ぎると小高い山となっており、「こでの木坂」としてかっては急峻な坂であり、一里塚もある。 そこに設楽牧童句碑があり、
  牧童とは聞いたことない俳号なのでネットで調べたら芭蕉の門人だった。 その近くにあるのが「双頭一身道祖神」で市の指定文化財に
  なっている。 中山道は道祖神が多いが、双頭一身は初めてお目にかかる。
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 ■嵐讃岐と六地蔵石幢、しめ飾り
  中山道は市街地から郊外となり畑や田んぼの中となる。
  本日初めてのコンビニを見つけトイレ休憩。
  そのコンビニの駐車場に石積みの碑があり、嵐讃岐の供養碑と書かれている。
  嵐讃岐とは時代小説の主人公名に使えそうな格好いい名前なのでネットで調べたが
  説明板以上の内容は見つからなかった。その先にあったのが六地蔵。
  今迄見た六地蔵は、六体の地蔵か1枚の石に六体の地蔵を浮き彫りにしているもの
  だったが、ここは六体の地蔵の石灯籠の形となっていて非常に珍しい。
  因みに、この形は石幢せきどうと言う。
  この付近の民家に、正月のしめ飾りを玄関に飾っている家が多く、良く見ると何か
  書かれており、子孫繁栄と魔除けらしい。
  次の大井宿との間の中間にある坂本立場に到着。 旧家も何軒か。
  「尾州白木改番所跡」があり、尾張藩は木曽檜等の木材の抜荷や量目の監視に
  厳しく、このあとも尾州白木改番所は何箇所も見かけた。
  ※大湫 おおくては、大久手とも書かれる。

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 ☆連載 中山道六十九次踏破記録 13日目 大湫 おお くてから太田
猪崎 徹さん(3710)から
掲載日:2017年 1月 1日

【13日目】 大湫-6.9Km-細久手-11.4Km-御嵩-4.5Km-伏見-8.1Km-太田

  7月30日、午前6時始発の近鉄に乗り名古屋経由中央本線JR釜戸駅へ。
  近くのコンビニでお握りを買い、タクシーで前回の到達点である大湫(おおくて)宿に到着したのは10時過ぎ。
  天候は晴れ予報は最高36度。
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 ■二つ岩
  大鍬宿から暫らく歩くと大きな岩が二つあり、「道の左に立てる大きなる石二つあり。 一つは烏帽子岩という高さ三丈(約9m)ばかり、巾は
  三丈に余れる。 また、母衣岩という高さはひとしけれども巾は是に倍せり。いずれもその岩の形は似て石のひまひま松その外の草木は生い
  ける。 まことの目に驚かす見ものなり。 大田南畝の壬戌紀行より」との大田南畝(蜀山人)の文章が石碑に刻まれている。
  現在では木に覆われて大きさも形も定かではないが、大きな石であることは分かる。 ここまで書いて「石と岩」の違いが気になりネットで
  調べた。「一度動いた/手を加えたことがあるものは石、動いた形跡のないものは岩」また「有用なものは石、そのままじゃ使いようがない
  ものは岩」ともある。 大田南畝の文章は全体としては岩で、その岩の部分を特定する場合は石と書いているように思うが、現代と江戸時代
  では定義が違うのかもしれない。
 ■琵琶峠
  「琵琶峠東登り口」の石碑があり、山間の石畳道となる。 ここは日本で最も長い約730mの石畳道で、峠の標高は585m、大湫宿自体標高
  510mなのでさほどの高さではない。 平たい石の乾いた石畳は歩きやすく、山間の緑のトンネルは気持ち良いが蚊の多いのには閉口する。
  特に竹林があると蚊の密度が高くなり、両手で顔の前を払いながら歩くことになる。
  頂上には馬頭観音と皇女和宮photoの歌碑があり、見晴らしは全く無し。 和宮の歌は実感がある。
 ■犬の訓練所
  「琵琶峠西登り口」の碑があって琵琶峠を越えたことが分かるが、まだまだ山道、ただその山道が広く
  なり簡易舗装となり自動車道となる。 大きな木造の家が遠くから見え、近寄ると犬の鳴き声がして
  その建物の前に塀で囲んだ広い運動場のようなものがあり、建物には「国際犬訓練所」と書いてある。
  その家の前に差し掛かると、更に何匹もの大型犬特有の低音の吠え声が聞こえ、姿は見えないものの
  迫力がある。 建物の前を通り過ぎると吠え声はピタリと消えた。

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 ☆連載 中山道六十九次踏破記録 14日目 太田から加納
猪崎 徹さん(3710)から
掲載日:2017年 2月 1日

【14日目】 太田-9.3Km-鵜沼- - - -17.4Km- - - -加納
 7月31日、午前8時、太田宿(美濃加茂市)のホテルを出発、まず木曽川の大田橋まで戻り、そこから中山道ウォーキングをスタートする。
 天候は晴れ、予報は最高38度!
 ■太田の渡しと岡本一平
  太田の渡しは、河川の増水などでたびたび中止になったことから、中山道の難所の一つとされ、「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠が
  無くばよい」と当時の馬子唄に歌われた。 個人的には難所として和田峠を加えて欲しいが。
  現在の太田の渡しには何も残っておらず化石林公園があり、日本ライン川下りの「遺跡」がある。化石林は、地面に木の化石が転がっている
  もので、化石が林立しているわけではない。
  日本ライン川下りは、太田から愛知県犬山市にある犬山橋下船場までの約13kmの木曽川急流を舟で下るもので、人気があったらしいが、
  事故があって不人気となり、現在は営業していない。
  大田橋から川沿いに下ると「岡本一平終焉の地」の碑があり、何の説明もない。 どこかで聞いたような名前で、ネットで調べたら、昔の
  漫画家で、妻は小説家の岡本かの子、画家の岡本太郎(太陽の塔の)の父、池部良は甥、と書かれている。
  どうしてこの地(美濃加茂市)で亡くなったのかは分からなかったが、当地出身の坪内逍遥との交流が関係しているらしい。
  ネット情報では、浮気を繰り返す岡本かの子を岡本一平は愛し続けたとのこと、そうか、「かの子繚乱」のモデルだ。
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 ■太田宿 51番目
  堤防から、旧家の連なる町並みが見え、そこは太田宿、観光客用に整備されているが、早朝で旅人は少ない。
  まず目にはいった立派な旧家は旅籠の小松家、中を無料公開して休憩所になっている。
  白壁の綺麗な旧家は酒屋、本陣は門のみだが豪壮な構えの脇本陣は残っている。
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 ☆連載 中山道六十九次踏破記録 15日目 蘇原駅から東赤坂駅
猪崎 徹さん(3710)から
掲載日:2017年 3月 1日

【15日目】 蘇原駅-約12Km-加納-5.9Km-河渡-4.8Km-美江寺-約6Km-東赤坂駅
  9月11日、始発電車に乗り、名古屋経由で前回到達地点のJR高山本線蘇原駅到着はam9:30。
  前回の7/31は38度の猛暑でリタイアしたが、本日の予想最高温度は28度で晴れ時々曇り、早朝は長袖でないと寒かったものの既に日は昇り
  半袖で快適。 蘇原駅から10分程で旧中山道(国道21号線)に戻り歩き始める。
 ■空からの爆音と路上の絵
  飛行機の爆音が凄まじく、屋根と屋根の隙間から離陸直後で急上昇している自衛隊の輸送機が見え、更にV字型の垂直尾翼の戦闘機2機編隊も
  離陸して上空に円を描いている。 調べたら航空自衛隊の各務原基地が近くにある。 速度が速くて視界が狭く写真は取れないが、とにかく
  音が凄い。 こんな所によく住んでいられるなと思っていたら、1時間程でピタっとやみ、あとは遠くのヘリコプター音だけ。
  足元を見ると歩道の路面に飛行機のタイル絵、この地の住民は飛行機と共存しているのだ。 ユーミンの飛行機雲を口ずさむ。
 ■スバイダーマン
  鵜沼宿から加納宿まで17.4Km、既に半分は歩いているが、旧中山道は国道21号線と並行する旧街道となり、車の通行量は比較的少ないもの
  の宿場の遺構は全くない市街地。 歩くのは楽な反面、面白みは少なく、被写体となるような光景には縁遠い。
  とある住宅でスパイダーマンを見つけた、しかも2人。この家にはどんな人が住んでいるのだろうか、顔を見たいような、見たく無いような?
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 ■日吉の蛙
  鵜沼と加納の間の距離が長いので、間(あい)の宿として新加納の立場(休憩所)が設けられた。
  その新加納で「日吉の蛙」の石像があり、ネットで調べたところ、この地にある日吉神社は狛犬ならぬ狛蛙があり「日吉のカエル」として
  有名とのこと。
 ■昼食のランチ
  旧中山道は市街地の中の旧街道であり店舗は少ない。 時刻は12時前、朝食は5時だったので早めの昼食をと食堂を探しながら歩いていたら
  「ランチあります」のビラを見つけ、その喫茶店に入る。 中身の確認もせずにランチを注文し、出てきたものを見て豪華なのにびっくり。
  慌てて値段を確認、750円だったので安心した。 この内容でこの値段は安く、しかも食後のコーヒー付き。 喜んだものの、写真の上段の
  箱の左端にある鶏の唐揚とコロッケは油ベトベトでまずかった。
 ■加納宿 53番目
  やっと加納宿に到着、宿場遺構は何もなく、説明板があるのみで、行政的には岐阜市。 ガイドマップに「ドラキュラ館」とあり、観光地に
  よくあるXX館かと思ったら、ただの廃墟ビル。 こんなものマップには書かないで欲しい。
  そのすぐそばに「二文字屋」の屋号と木製の杵つき兎をかざっている店があり、近づいたら鰻料理の店で、調べたら元和6年(1620年)創業の
  超老舗、兎は『左甚五郎』が欄間に彫ったもの。もう少し我慢すればここの鰻を食べられたのに、残念!
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 ☆連載 中山道六十九次踏破記録 16日目 東赤坂駅から醒井
猪崎 徹さん(3710)から
掲載日:2017年 4月 1日

【16日目】 東赤坂駅-赤坂-6.9Km-垂井-5.2Km-関ヶ原-4.2Km-今須-3.3Km-柏原-5.4Km-醒井
 9月27日、始発電車に乗る為に5:30に家を出ると、日の出前ではあるものの既に明るい西空で大きく輝くスーパームーン、ラッキーな気分と
 なる。 京都・米原・大垣で乗り換え、前回到達地点の養老鉄道東赤坂駅に9時到着。本日の予想最高温度は28度で曇り時々晴れ、通勤の人も
 全員長袖、最初は少し寒かったが歩き始めるとすぐに暖かくなり、長袖シャツを脱ぎ。半袖Tシャツとなる。
 ■赤坂宿 56番目
  最初に目にはいってきたのは「火の見櫓」、今時珍しいと思ったらなんと「常夜灯」、付近には赤坂港の地名表示があり、昔は揖斐川と
  杭瀬川が合流した大河の港で、明治になっても近くの鉱山の石灰を運ぶ舟で賑わったとのこと、常夜灯と言うよりは灯台の役目か。
  但し、現在では小川のほとり。
 ■本陣・脇本陣は残っておらず、説明板のみ。
  本陣跡は整地されていて公園のようになっており、和宮宿泊の記念碑と「所郁太郎」なる武士の銅像がある。 所郁太郎と馴染みのない名前、
  当地出身の「幕末の憂国の志士」で町医だったが、桂小五郎・高杉晋作等と親交があり、長州藩の医院総督を勤め、維新前年に病没。
  瀕死の重症の井上聞多(馨)を手術し畳針で縫って一命を救った話が戦前の教科書に書かれていた。
  更に出生の地と墓があり、当地で唯一人の幕末の志士だったのかも。
  街道沿いに旧家がチラホラあるが、ふと覗いた横丁には旧家の土蔵や塀が連なり、そちらの方が宿場町の雰囲気が残っていた。
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 ■立派な旧家と倒れそうな旧家
  白い漆喰と木の壁の綺麗な旧家があり、比較的最近の建築かと思ったら赤坂宿最古の木造建築の一つで十八世紀半ば建造の旧清水家、米屋を
  営み、市に寄贈されたもの。 その近くにあったのが現在も人が住んでいる旧家で、屋根は曲がり、台風でもきたら倒壊しそう。
 ■お茶屋家屋敷跡
  家康は関ヶ原で勝利後に上洛の為の自軍専用の休憩宿泊所を中山道の16Km毎に作らせたそうで、その一つを明治維新後に払い下げ、庭園と
  したものがお茶屋家屋敷、風情のある入口を入ると竹林や庭木・池が見事だった。
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 ☆連載 中山道六十九次踏破記録 17日目 醒井から武佐
猪崎 徹さん(3710)から
掲載日:2017年 5月 1日

【17日目】 醒井-4.3K-番場-5.4K-鳥居本-6.4Km-高宮-7.4Km-愛知川 -11.1Km-武佐
 10月15日、前回到達地点の醒ヶ井駅に到着、8時30分より歩き始め、天気予報は晴れ時々曇り。
 ■一類狐魂等衆碑
  醒ヶ井のはずれに「一類狐魂等衆碑」という石碑があり、その由来が書かれている。
  「一類狐魂等衆」の意味が分からず調べたが不明。 「孤独な魂もみんなの魂と同じ」のようには思うが。
photo photo photo  ■番場(ばんば)宿 62番目
  1時間程で62番目の番場宿に到着。 本陣・脇本陣等の宿場遺構は何もないが、街道の両側の家々に派手な旗が揚がっており、何の旗かと聞く
  と宿場にある蓮華寺のxx年法要があるためで、この旗は仏旗と云うとのこと。 へぇー蓮華寺は寺用の旗を持っているのかと興味を覚えて調べ
  たら、この仏旗は国際仏旗として定められた世界共通の仏教の旗で6色仏旗とも呼ばれ各色は仏教の教えを表している。 浅学が恥ずかしい。
  因みに六色とは「仏陀がそのすぐれた力をはたらかせる時、仏陀の体から放たれる青、黄、赤、白、樺及び輝きの六色」。
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 ■蓮華寺 北条仲時と番場の忠太郎
  その蓮華寺を見学、入山料300円也、南北朝時代の北朝の六波羅探題北条仲時はこの寺で南朝方に包囲されて一族郎党430余名は自刃し、
  その墓がある。 また、長谷川伸の戯曲「瞼の母」は当地が舞台で、その主人公の「番場の忠太郎」の地蔵があった。
   長谷川伸の名と番場の忠太郎の名は知っているが、芝居を見たことも戯曲を読んだこともない。 当寺の住職は斎藤茂吉の友人だった
   とのことで、斎藤茂吉の歌碑があり、そこに「歌聖」と書かれていた。歌聖は言い過ぎ?

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 ☆連載 中山道六十九次踏破記録 18日目 武佐から瀬田駅
猪崎 徹さん(3710)から
掲載日:2017年 6月 1日

【18日目】 武佐-16.5m-守山-5.1Km-草津-約7Km-(瀬田駅)
 11月5日、前回到達の近江鉄道武佐駅を8時スタート、快晴、日差しが眩しく、サングラスをかけて歩き始める。
 ■鏡の宿、源平盛衰
  武佐と次の守山宿との距離は16.5Kmと長いので、間(あい)の宿の「鏡の宿」が中間にあり、その鏡の宿はさしずめ「義経づくし」。
  最初は「義経宿泊の館あと」、と言っても石碑のみ。 次は鏡神社で「義経元服の地」のノボリが何本も翻っている。
  鏡神社にお参りして鈴を鳴らし、道中の無事を祈る。 牛若丸は吉次と奥州に行く途中、この地で元服して九郎義経となった。
  鏡神社の入口にあるのが「烏帽子掛けの松」で、元服の時にかぶった烏帽子をかけたとされており、現在は根元2m程しか残っていない
  ものの、巨木であったことが分かる。
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  神社の隣りにあるのは「元服池」、元服の儀式でこの池の水を使用した。
  その儀式で使用した盥は現存していると書かれており、是非見たいものだが非公開らしい。
  義経づくしの次は平家。 鏡神社の少し先に平家終焉の地の標識があり、その標識に従って塀と藪の間の小道を抜けると木立に囲まれて二つ
  の石を置いた石塚がある。 義経に捕らえられた平家の総大将の平宗盛とその子の清宗はこの地で首を切られ、その首は鎌倉に送られ、胴体
  は親子一緒にこの地に葬られた。 平家終焉の地は壇ノ浦ではなく、総大将が切られたこの地とのこと。
  平宗盛の墓に写真が立てかけられており、拡大すると「神戸清盛隊」と書かれた写真であることが分かる。
   清盛は神戸の福原を都としたので、神戸では人気者なのかも。
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 ☆連載 中山道六十九次踏破記録 19日目  瀬田駅から京都三条大橋
猪崎 徹さん(3710)から
掲載日:2017年 7月 1日

【19日目】 瀬田駅------大津-11.7Km-京都三条大橋
 12月5日、前回到達の瀬田駅を9時半スタート、雲があるものの晴れ。 11月末に歩く予定だったが寒波襲来で延期し本日となった。
 本日のコースを歩くのは4回目、瀬田駅からお馴染みの道標まで10分程歩いてから中山道となるが、草津からは東海道と同じなので、道標と
 しては「東海道」となる。
 瀬田の唐橋ではいつものボート練習風景、一人、2人から10人程で漕いでいるものまで或いはメガホンを持ったコーチらしき人のモータボート
 もあり、様々なサイズのボートが見渡す範囲で30隻以上、唐突に「・・ボートは沈みぬ千尋の海原・・」と「真白き富士の嶺」が頭に浮かび、
 メロディが頭の中を流れ始め、口に出さずに歌いながら歩いていると、なんだか物悲しい気持ちとなる。
 石山の商店街にさしかかるとチンドン屋の賑やかな音が聞こえ、パチンコ屋のリニューアルオープンの宣伝でカメラを向けたら先頭のお姉さん
 が手をふってくれ、気分はまた高揚、我ながら単純!
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 石山から膳所(ぜぜ)へ、折れ曲がりの多い旧城下町の道となるが、城跡などは何もなく、跡を示す標識のみ。
 旧家と寺の多い街中で、突然モノクロからカラーとなったようなイメージで銀杏の黄色と紅葉の赤の旧家が現れ、足を停めた。
 そんな旧家の中で1階の屋根に人形のようなものを置いた家がある。
 同様な人形を同様な場所に置いた家が何軒かあり、魔除けと思うがこの辺の風習か?
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 ■大津宿 69番目
  木曽義仲と芭蕉の墓のある義仲寺は土曜日にも拘わらず静かで観光客は見当らず、立ち寄らずに素通り。 ひたすら歩いて大津に到着。
  宿場の遺構は残っていないものの、旧家は多い。 街角に「ロシア皇太子受難の地」の石碑があり、当時のロシア皇太子がこの地で日本の巡査
  に切りつけられたもので、大国ロシアを恐れた日本は明治天皇が京都に駆けつける大事件となった。 その皇太子は後に皇帝となって革命勢力
  を弾圧し、ロシア革命で処刑されるが、ネットで面白い記事を見つけた。
  「この事件に遭遇して以降、皇太子は日本人に嫌悪感を持つようになり、ことあるごとに日本人を「猿」と呼ぶようになる。 ロシア首相
  セルゲイ・ヴィッテは皇太子の日本人蔑視が後の日露戦争を招いたと分析している」。
  大津での昼食は温かい蕎麦と握り寿司の定食。
(中略・・・PDFでご覧ください)
 ■京都三条大橋
  三条大橋着は午後3時、5年前の東海道ウォーキングでは孫の出迎えを受けたが、今回は家内のみ。 本日は4万歩。
  東海道53次の公称492Kmは20日で踏破、但し、宮と桑名間の27Kmは海上なので、歩いた距離としては465Km。
  中山道69次534Kmは19日で踏破したので、1日平均は東海道の23Kmに対し28Kmと2割程伸びている。
  歩数については、東海道は96万歩で4.8万歩/日。 中山道は11日目と12日目は歩数計を忘れており宿場間の公称距離の52.9Kmを歩幅70cm
  で計算し、総計102.7万歩で5.4万歩/日に増えている。(完)
 ※中略部分はPDFでご覧ください。 ☞ 中山道六十九次踏破記録 19日目
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 楽しかった中山道ウォーキングは完了し、次の計画を色々と空想しております。 長い間のご愛読、まことに有難うございました。
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